人物略伝-張コウ

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人物略伝-張コウ

柳風

 

「ヒュー」と、一本の鋭い矢が風を切ると、まっすぐに張コウの足の骨に突き刺ささり、血が飛び散る。

張コウは痛さで左膝を地面についた:「うっ!」と張コウが低く唸ると、長身で丈夫な体は青筋を立て、豆粒ほどの汗が一瞬にして零れ落ちた。

「将軍!将軍を守れ!」魏兵は張コウの異様さに気づき、慌てて大声をあげて、皆が張コウを囲んできた。

張コウの目は、強い日差しのせいでくらむ。木門谷は待ち伏せされ、魏軍は劣勢となり1人で10人の蜀軍と対抗した。張コウはもはや、自分がどれだけの敵を斬ったかすら覚えていない。全身の筋肉はしびれきっているが、蜀軍の伏兵はいくら殺しても、次々と攻撃してきた。

汗が肌を伝って零れ落ちる。張コウは目を赤らめて天から降り注ぐ矢を見ていた。ぼんやりとしていると、これまでの人生がまるで走馬灯のように目の前をよぎっていく。

 

「 夫れ、地形は兵の助けなり。 夫れ、地形は兵の助けなり。敵を料りて勝を制し、険易・遠近を計るは、上将の道なり。此れを知りて戦いを用うる者は必ず勝ち、此れを知らずして戦いを行なう者は必ず敗る…」

張コウの目には子供の頃の故郷が映っていた。スモモの木が実り、彼は朗読に集中している、まだ10歳程度の年齢でありながら、声には力が漲っていた。

記憶の中の父は満面の笑みを浮かべ、『孫子の兵法』を手にして言った。「コウよ、次の『兵勢篇』をもう一度暗唱してみなさい」

「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ故に善く奇を出だす者は……」幼少の張コウは少し目をクルクルさせたが、すぐにすらすらと暗唱してみせた。

「よし!コウよ、お前は素晴らしい才器を持っておる。兵法に関しては尚更、一度見ただけで覚えられる。」父はうれしそうな顔で、息子に茶を1杯渡すと、続けて言った。「父は嬉しいぞ。だが、兵法は論道の書とは違う、暗唱できても、理解は出来たか?」」

「父上、少し分からないところがあります。例えば、この『帰師は掩うべからず、窮寇は追うことなかれ。』とはどういう意味でしょうか?」

「これは、退却する軍隊を攻撃してはならない、もう逃げ場のない敵を追撃してはならない、という意味だ。さもなくば、深追いすれば危険に陥り、逃げられなるやもしれない。分かったか?」

「分かりました、父上。」幼い張コウは何となくわかったように言った。「しっかりと肝に銘じます。」

「あなたったら、子供に兵法書ばかり読ませて。」その声を聞いた張コウの母がやってきた。彼の額にあるびっしりとした汗をぬぐい、口調は穏やかだが少し咎めながら言った、「兵を率いて戦争をするのは、士族や貴人たちが気にかけるべきことなのに、どうして張コウにそんな殺し合いの勉強をさせるの?」

「母上……」

「コウよ、世の中は平穏ではない。母はただ、あなたが護身用に武術を身に着けて、一生無事であればいいの。」

そう言いながら、机にある兵法書を取り上げようとする母を見て、幼いコウは一足早く本を手に取る。

「母上、『王侯や将軍、宰相となるのは、家柄や血統によらない』や、『英雄は出所を問わず』を聞いたことがあります。私も生まれによって運命が決まるとは思っていません!」

父と母はそろって彼を見つめた。その目に驚きもあれば喜びもあったが、結局は鼓舞的な笑いへと変わった。

「よし、我が子の胸には大志がある。父はお前が立派になることを期待しているぞ。」

 

記憶の中にある、父の爽やかな声が少しずつ遠のいていく。張コウは、消えていこうとする両親を捕まえようと思わず手を伸ばした。

次の瞬間、記憶の中の彼らの顔はまた緋色の血と天を衝く火の光に呑み込まれた。

黄巾軍の乱は、焼け野原の火のように、腐敗した朝廷を燃やし尽くし、またうっぷんを晴らすかのように、野獣の如くあたりを焼き尽くしていく。彼の家は火の海と化し、すべての生きる望みを絶ち切った。

張コウ少年は何度も家に飛び込むが、その自慢の武力は、烈火の前では綿を殴るが如く無力であった。燃え尽きた梁が次々と落ち、灼熱の温度と息ができない程の濃い煙で、彼は頭のないハエのようにあちこちにぶつかり、焦げつき、茫然とし、さらに恐怖に怯えた。

両親に関する最後の記憶は、破損した門の前であった。父の体には無数の刃物の跡があり、母の服はひどく乱れていた。露出した皮膚は火に焼かれて皮が裂け、黒焦げで死の気配を漂わせていた。

何たる屈辱!何たる苦痛!

今にも崩れそうな家に飛び込もうとする張コウを、まだ少しの息が残っていた母が人生最大の力を振り絞り外に押し出した。

「コウよ……我が子は将来、誰もが尊敬する大将軍になるのだよ……」

次の瞬間、家は崩れ、炎の海に呑み込まれた。

張コウは目に涙もなく、床に座り込んで、炎がすべてを呑み込むのをただ見ていた。

後ろでは黄巾軍の猛威を振るう叫び声、笑い声が響き続けている。

しばらくして、張コウは機械的に、ゆっくりとふり返った。手当たり次第に、地面にある残刀を掴む。両目は血が滴るかのように赤くなり、まるで修羅の再世のようであった…

 

この年、張コウは十五歳にすぎなかったが、驚くほどの勇壮さを持っていた。刀を振り、残刀は刃をまき散らし、黄巾軍の死体が彼の足もとに横たわっていた。空一面が真っ赤な血に染まっていた!一日中、誰もが怖くてこの通りには近寄らなかった。

夕方、一人の威風堂々とした男が夕日を踏みしめてやって来た。

「この十数人を殺したところで、また数百、数千、数万人と待っているぞ……」男の声は落ち着いていて、力強い。「まだ復讐したいか?徹底的に。」

死体の山の上にいる張コウは、没落しうつむいた頭を微かに動かし、少し傾いた。彼は顔を上げ、来た人をちらっと見る。

何も言わなかったが、目の前の男を知っていた。冀州牧の韓馥だ。

韓馥は続けた。「我が配下となり、黄巾軍を徹底的に鎮圧してこそ、お前の復讐は果たされる。」韓馥は腰をかがめて張コウに手を差し伸べた。「お前の名も世に知れ渡ることだろう。」

張コウはためらうことなく、手を伸ばして勢いを借りて、立ち上がった。

その後の張コウは、虎が山林に帰ったかのように、巧みな戦法と、高い武芸により、戦場では一人で千人に対抗した。その勢いは止まることを知らず、すぐに官軍の黄巾軍への劣勢を逆転させ、一ヵ月も経たずに皆の頭を悩ませていた黄巾軍を鎮圧した。

大功績を建てたことで、士族出身ではないが、韓馥は特別に張コウを軍司馬として抜擢した。

韓馥は彼を、少年ヒーロー、前途無量だと称した。

無量無限、ならば前途は何であるか?

彼が、士族出身だらけの英豪の中で、自分の地位を得られるのはいつの事になるのやら!

張コウには分からなかった。彼が知っているのは、今回剣を持ち上げたからには、天下が定まるその時まで、決して手放しはしないという事だけである。

なるようになれだ、どこからでも!かかって来い!

 

「巧変張コウ、蜀軍これを聞けば、恐るるなり!」」

三十八年の南征北戦、喰血の刃、張コウは天命の年を過ぎた。

三十八年間、張コウは相次いで、韓馥の傘下から袁紹と曹操の元に下り、曹操と共に鄴城を占拠し、袁軍を撃破し、烏桓を破り、陳蘭と梅成を斬り、馬超と韓遂を潰し、西軍に従えて張魯を征伐し、漢中に進攻し、更に江陵で呉軍を大破した……輝かしい戦功がありありと目に浮かぶようだ!

三十八年間の戦争の洗礼により、彼の巧みな用兵と地形術の利用は誰も対抗できない程の究極の境地にまで達した。「巧変張コウ」の名声は、天下に知れ渡ったのだ!

特に街亭の一戦では、魏軍の危急の際に、張コウは危機を目前に命を受け、変数を認識して戦勢の地形を予測し、馬謖の水源を経ち、蜀軍を包囲して山に閉じ込め、5日5晩の激戦で、最終的に蜀軍の1割の兵力で街亭を攻略し、大勝した。蜀軍は進退の拠り所がなく、もう北を犯すことはありえない!

この一戦で、張コウは一人の謀略だけで曹魏全体を救った勇謀な英雄となった!

「張コウよ、賊寇の諸葛亮が巴と蜀軍衆を率いて進攻してきたのを、愛卿が鎧をつけ、利器を持ち、攻めて敗れることなく、猛虎が街亭を取ったが如く、力を尽くして流れを変えたのだ!朕から厚く褒美をやろう!」」

祝勝会で、曹叡はとても興奮して玉座から降り、自ら張コウに表彰を渡した。

張コウは魏帝から与えられた豊かな食物を眺めていたが、何も感じなかった。

彼は富貴に興味はなかった。一方の主将となり、一方を率いり思いっきり熱情を活かせることが、生涯の望みなのだ!

だが、その出身故に、どんなに輝かしい戦功を立てても、主将に抜擢される機会はなかった!今回のような街亭の大手柄でも、魏帝は彼を主将に封じる気はなかった!

「時なり?運命なり?」かつての少年将軍にも白髪が生えた。まだチャンスはあるだろうか、若き日の情熱と夢はどうしたらいいのか、とよく自問した。

だがすぐに、また白髪を風の中に散らして、一笑に付した。

「こんなことを考えても仕方がない、いたずらに悩みを増やすだけだ。刀を握っていられる限り、戦い続けるだけだ!」

 

「殺せ!」

敵軍の嗄れ声が木門谷に響き渡り、張コウは我に返って天を仰ぐ。

満天の矢が張コウの体に突き刺さる。張コウは天まで貫く豪勇で、蜀軍と三日三晩の激戦を続けた後、倒れた。

身近にいた魏兵は残らず戦死したが、彼は全身から血を流しても、手に持っていた剣を放すことはなかった。

「帰師は掩うべからず、窮寇は追うなかれ。さもなくば、深追いすれば危険に陥り、逃げられなるやもしれない。」父から教えられたこの言葉を、張コウはずっと覚えていた。

諸葛亮が祁山まで退き、主将の司馬懿は張コウに追撃を命じた。彼は「師に帰して隠すなかれ」の道理をよく知っていたため、司馬懿に反論した。「軍法、城を包囲して必ず活路を開き、軍に帰して追うなかれ」

だが、司馬懿は承知せず、張コウに追撃を強制した。軍令は山よりも重い、張コウは従わざるを得なかった。領部将が木門谷まで追いかけると、蜀軍に高所から待ち伏せ攻撃され、将兵は皆、ことごとく敗退した!張コウも抜け出すことができず、体中の骨が崩壊寸前だった!

だが、息がある限り、彼は倒れない!

火の海の中で、母は「我が子は将来、誰もが尊敬する大将軍になるのだよ……」と言ったのだ。

大将軍が倒れるはずはないのだ!

張コウは最後の力をつくし、全身血だらけになって立ち上がり、天地が震え上がる。「殺せ!」

剣にある長い鞭は急に出撃し、敵軍の血を飲み尽くす!

死ね!

一身の血を燃やし尽くしても、蜀軍を残らず殺し尽くしてみせよう。